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三友エージェンシーの「三友」とは三友エージェンシーの「三友」とは

株式会社三友エージェンシーの「三友」とは、実は三井の「三」と住友の「友」を頂いて命名したものです。

当社創業者の益田泰子は「鈍翁」益田孝の曾孫です。益田孝は旧三井物産の初代社長であり、三井の大番頭でした。まずは益田孝についてお話しします。
若き日の益田孝。パリの写真館にて撮影。
益田孝は嘉永元年(1848)、佐渡島、相川の役人の家で生まれました。才を認められた父・鷹之助に伴い幕臣として江戸に出た孝は、「支配通弁御用出役」となって麻布善福寺のアメリカ公使館に勤務します。そこで生きた英語を学び、初代公使のハリスに接して大きな影響を受けました。
文久3年(1863)に遣仏使節・池田筑後守の随員となった父・鷹之助の従者として初めて渡欧。ヨーロッパの進んだ文明、とりわけ港に整然と並ぶ軍艦に深い感銘を受けます。明治維新後は商売を始め、その才を認められて、アメリカのウォルシュ・ホール商会のクラークに迎えらます。その後、井上馨と知り合い大蔵省に入省。貨幣の切り替えにともなう金貨鋳造に取り組んだ後、井上の下野とともに「先収会社」の創立に参加しました。

若き日の益田孝。パリの写真館にて撮影。

若き日の益田孝。パリの写真館にて撮影。

益田孝(1848–1938)

益田孝(1848–1938)

そして明治9年(1876)、三井物産会社(旧三井物産)を設立します。世界で通用する日本の貿易会社:「商社」を作り上げていきます。そして中外物価新報(現・日本経済新聞社)もこの年12月、益田孝が設立しました。明治21年(1888)、悲願であった三池炭鉱の入手(工部省鉱山寮から払い下げ)に成功、翌年1月に「三池炭鉱社」(三井鉱山の前身)を設立しました。この三池炭鉱の石炭は、旧三井物産が飛躍的発展を遂げた最大の要因といわれています。石炭の市場を上海、香港、シンガポールなどに拡大していきました。
益田孝(1848-1938) 明治後期には、日本の主要な輸出品であった石炭、米、綿糸、綿布、生糸をはじめ、300 余りの品種を扱い、当時の日本の貿易総額のほぼ2割(約2億円)を占めるほどでした。また、三池炭鉱とあわせて得たのが、團琢麿です。二人は後に三井合名・三井グループの舵取りをしていきます。三井グループ各社の設立には、益田孝と團琢麿が数多く関わっていました。
茶器「純太郎」また、益田孝は茶人、そして卓越した古美術蒐集家としても知られています。明治時代、日本は西洋文明には熱心でしたが、伝統文化や古美術の保護の政策は無に等しかったと言えます。そんな中海外に流出する仏教美術を救うなど、日本美術の保護に大きな役割を果たしました。
太平洋戦争末期、米軍は小田原の早雲台益田邸を絶対空襲しなかった程、そのコレクションは世界にも知られる卓越したものでした。

さて、「三」と「友」の話しです。当社創業者の益田泰子の父:益田智信は益田孝の孫ですが、益田泰子の母:倭子(しずこ)は三井家より嫁いできました。益田倭子の父(益田泰子の祖父)は三井守之介高泰(旧三井物産5代目社長)です。そして益田倭子の母(益田泰子の祖母)は、第12代住友吉左衛門の娘:楢光(ならみつ)でした。明治の時代において三井、住友両家はともに手を携えて日本の発展に尽くしてきた歴史があったのです。その歴史が、現在の三井住友グループに繋がっています。このように、当社のバックボーンには、三井、住友、益田の血が流れているのです。

この様な理由から、当社は設立時、三井家の方のアドバイスから三井の「三」と住友の「友」を頂き、「三友エージェンシー」と命名しました。この名の通り、弊社のミッションは「広告などのコミュニケーション手法を用いて、三井グループ・三井住友グループ各社の繁栄に貢献する」ことであり、今までも、これからも一貫してこのミッションのために努力してまいります。

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